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- 一般的なお宮の高さは35~55cm、横幅30~50cm、奥行き24~45cm程度です。
ご希望の大きさ、飾りつけなどをお聞きした上で丁寧にお造り致します。
なお、納期は1~2か月頂きますのでご了承ください。
藤本木工芸には300年もの間、先人の職人たちが残した数々の古文書が大切に保管されてきました。
その時代その時代ごとに幕府や政府とやり取りをしながら、自分たちの家業を必死になって
守ってこようとした記録であり、
現在の私たちの礎となっています。
古いお宮紹介
明治・大正時代のお宮
150年前の高さ70センチの大型神棚、反りの宮の原型です。日々の乾拭きで木の光沢が素敵です。木の黒さは昔換気設備がないことにより煙が充満しての色です。千木・勝男木は破損が激しく修復しています。
台所のお宮
古文書紹介
最も古い古文書(享保元年/1716年)
古文書(安永3年/1774年)
松江藩からの手紙で藩の台所細工御用で務める様子が伺えます。
古文書(安永9年/1780年)
1700年から1800年代の古文書
古文書(明治時代)
家宝求物控簿並びに年代記録簿(明治18年)/九代目 勘兵衛、十代目 傳之介(伴之助)記
子々孫々にわたって権利を尊重できるように、家業保全の目的で記され、かつ大事に保存されていたものです。権力に屈しず家業を守るために悪戦苦闘した様子と、いざという時には家を守る事ができるように先祖の想いが伝わる資料にもなっています。1700年代のの出雲大社遷宮に関わる話など非常に興味深い内容となっているようです。明治19年不景気の中でのコレラの流行での苦労が記してある。
古文書解説
藤本家文書の性格
六書六点とも、子々孫々にわたって権利を主張できるように、家業保全の目的で作成され、かつ大切に保存されてきたものです。封建時代の権力や意争相手に権利を侵害されないために、藤本家の先祖が頑張った足跡とも言えるものです。いざというときに、証拠の文書があります、と差し出せるようにしてあるわけです。不法から家を守る必死の思いが伝わってきます。一片の文書をもらうのにも、はずで御子孫としては、御先祖の悪戦苦闘ぶりとその成果 をしのぶよすがとなります。
他方、歴史研究の資料としても、「良質の内容豊富な文書」と評価されてており、町方の職人が幕府に陳情して肝煎(きもいり)を名乗るのを許されると、今日のゼネコン疑惑にもつながるような問題で、そこが史字からも「非常に面 白い」内容となるわけです。
1993.10.31 解読/広石邦彦 ※画像は東京大学大学院近世史専攻(当時)後藤雅知氏が原本から解読用に書き起こしたものです。
- 1.延享二年の文書
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出雲大社造営の際には、釿始め(ちょうなはじめ)、柱立て、棟上げ、遷宮の四事の祭式が行われるが、寛保の造営で工(たくみ)彦三郎は祝(いわい)の捲物(まきもの)、柱立て石口取の捲物(まきもの)については、従来通 りこれを拵(こしら)えて納めた。捲物とは神社の祭式の用語で、祭事に使われる木工細工と見られる。 ところが、三宝(算法)とやりかんながけ類は、松江の工人が作って納めるとの横ヤリが入って、彦三郎はこれを問題にする。 七十年程前の寛文の造営のとき、四じの祭式の木工の入用物は、祖父の工(たくみ)市郎右衛門が拵(こしら)えて差し出しているのだから、松江にもって行くのは不当であって、由来を確認し、松江のは取り消してほしい、と再三訴えた。
出雲大社の大工頭とみられる神門家と吉川家が、彦三郎の訴えを聞いて松江藩の役人にその旨を申し出るところとなった。しかし、松江藩は聞き届けず、前から用意していたので、今回は松江から出させてほしい、と伝えてきた。とはいえ、松江藩も先例についてははっきり認め、将来、造営がある際には、その先例に従い、指示の祭式の入用物を彦三郎家で拵(こしら)えて出すのがよい、と了承した。松江の役人もそう伝えてきているので、後々(のちのち)の証明のために、一札(いっさつ)書いて渡しておく、というのが神門・吉川両家連名によるこの文書です。
- 2.願い奉(たてまつ)る口上(こうじょう)ー明和の文書
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杵築村の木工職には、これまで肝煎(きもいり)と称する者は居らず、私がその役をやっていて、出雲大社の大工頭たる両家の御用を勤めてきました。しかるに、村の惣工(そうたくみ)のうち四人が幕府に陳情して(冥加金も出して)、肝煎を名乗って良いとの幕府の裏判をもらってしまいました。 私の家は格別で、先祖から大社の御用、両家の御用を勤めていますが、これからは紛らわしいことが起きないとも限りません。 ですから、先祖代々、大社の御用を勤めてきた棟を記す証拠書を下さるようお願いします。
先年以来、頭(かしら)の御両所へ歳暮の柄杓ーー祭事の行事として新調する用具ーーをこしらえ納めたという証明(読みとれず、正確に言えば不明の字)はありますが、これに加えて書付(かきつけ)を下さるなら、先々に証拠がまぎれることもありませんから、一札(いっさつ)下さるようひとえにお願い申し上げます。 「工肝煎(たくみきもいり)」を名乗る彦三郎が、大社大工頭と思われる神門・吉川の両家へ差し出した文書です。木工職の間に分化が生じ、幕府の公許を求めるものまで出てきたので、大社の仕事をめぐっても紛糾が起きかねず、彦三郎は永年の神社御用の地位 を維持すべく、紙に仕事の頭(かしら)に、独自の工肝煎として、権利を保障する証文を求めているわけです。
- 3.明和九年の覚え
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前年の「願い奉る口上」を受けて彦三郎に発せられた証文である。 寛文(かんぶん)の造営のときは九組の(たぶんその意であろう)捲物(まきもの)を、出入りしていた工(たくみ)市郎右衛門と申す者に申しつけたことが旧記の中に書いてあるので、寛保の造営のときも、旧例に従い工(たくみ)彦三郎の申しつけたのは間違いないとのことである。
昨年四月(旧暦)に町方(まちかた)で肝煎を立てたので、将来まぎれの生じないようにと書付(かきつけ)をもって嘆願があったことから、証拠書を渡しておくことにした。 神門・吉川両家の印と、立派な花押のある証文がもらえたので、彦三郎の造営の仕事は将来も安泰となった。しかし、これまた相応の努力の賜(たまもの)であったに違いない。幕府から肝煎として(たぶん、冥加金を出して)認められた新勢力は、大社造営に関してはまだ入りこめなかったことになる。
- 4.安永九年の覚(おぼ)え
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彦三郎に給料を与え、家臣として仕えることを示した文書。白石内蔵之介は、松江藩ないし家老クラスに仕える役人か。その役人が彦三郎に「伊藤」の姓をつけており、苗字が承認されていたのは明白である。士文の格であったことになろう。
近年、台所に関する細工の仕事に精を出して勤めたので、扶持人(ふちにん)格(召し抱えること)を申し付ける。年々、細工料としての米三俵もつかわすーーということです。 台所は幡か、家老など上級役人か、どちらか不明。彦三郎は大社の関わりのほかに、武家とのつながりでも仕事をしていたことになる。 従来の細工料はそのまま支給される。貴家の御用を勤める格が与えられ、給料も出て、細工料はプラスの余得か。いずれにせよ、彦三郎の奮斗の成果 を伝える文書である。
- 5.恐れながら願い奉(たてまつ)る口上(こうじょう)の覚(おぼ)え
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扶持人として台所細工の御用を勤めるために拝領した屋敷に住んだが、半分を他家が占めていた。これを取り返すべくしたためた嘆願書である。
私の家は先年から、御台所の細工をおおせかり、怠りなく勤めまして、細工の屋敷は、大土地村に間口十間余り奥行き三十間の一カ所をいただいております。 しかし、この屋敷の半分は、をり仁兵衛という者に与えられ、今は仁兵衛の孫、平助という者が所持しています。(をりは何か不明) 丁戴している残り半分の所に、私の兄の三右衛門を家主として親のときから住まい、三右衛門と私の二人で、怠りなく細工の御用を勤めているわけです。もっとも三右衛門亡き後は倅の九右衛門が前の通 り勤めているのですが、屋敷の半分で両人が勤めるのは狭くて困り、迷惑しています。 仁兵衛のところに与えられた半分については、追って代地をおおせつけられとのお話でしたので、以前、千家利馬様と広瀬佐治右衛門様がご担当の役のとき、代地を下さるようたびたび願い出ましたが、ご返事をいただけないままでした。 その後、長谷大武様がお役につかれた時もしばしばお願いしましたが、ご返事はないままでした。そこで恐縮ながら、またまたお願いするわけです。 屋敷の半分程の場所を、どこなりともいただきたいというのがお願いです。 今まで数年間、座敷は半分でありましたが、細工の御用は前の通りに両人で勤めまいりました。 はばかりながら、この段お許し下さり、何とぞお願いした通りにご下命されますよう、あわれみのご判断を願い上げます。くわしくは口上でも申し上げた通 りです。以上。
担当の役人がしばしば代わるところを見ると、松江藩をのものの台所の細工御用をしていたか、とも思われます。 なお解読文中、「大工地村」は「大土地村」か。また、読み下し文中、をり仁兵衛「と申す者へ仰(おお)せ付(つけ)させられ、唯今にては仁兵衛」孫平助のカッコ内落があります。 系図では署名者源七は二代ですが、彦三郎が扶持人になって屋敷をもらったあとの時期の文書かと考えられます。
- 6.前記の裏書
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平助に別の屋敷を手当てし、今の屋敷を丸ごと拝領したいとの願いは聞き届けられ、嘆願書の裏に承認の文がしたためられて、戻ってきた。役人三人に順が違っているのは、役所の側で、えらさの順序に変えたのであろう。裏書きには当然ながら印鑑がある。
表に書いてある通り承知する。その方の預かっている屋敷一カ所の内、半分に、をり平助が先祖から役もなく家賃も払わず住んでいるが、その由緒(ゆいしょ)がはっきりしない。これによりこのたび取り上げることとし、昔の通 り屋敷一カ所につなげるよう言い渡す。しかるうえは、ますます神事の御用、細工職に至るまで怠りなく勤めるように。ただ、半助も急に屋敷を空け渡されては困ってしまうから、しばらくは勘弁してやるがよい。この件は以上の通 りであり。
今で言えば、官舎に誰か入っているが、役人ではなく、何で入っているかわからない、というようなヘンなことですが、昔はこんなことも当たり前かもしれません。とにかく入れてやれ、と上から言われたのでしょう。迷惑至極だった源七は、この裏書により元の屋敷を回復できたので、一種の権利証のようなこの文書は大切に保存されねばならなかった。以上。
「藤本家文書の解読」はコピー及び無断で引用することを禁ず。藤本均、広石邦彦、関係諸氏の諒承を要す。
原本は藤本均、コピー1通は藤本剛これを所蔵する。 平成5年12月8日 藤本均